それがあまりにおかしくて、私は笑わずにいられなかった。
“それ”はずっと前から予測していたことで、そうならなければいいのにと願ったりもしたことで、だけどどうすることも出来ないと諦めようとしたことで、だからこうして笑うのは私のプライドだ。
「俺達、もう無理なんだよ。……別れよう」
少しだけ暗い声でそう切り出した男は、私の返事を待って沈黙した。
十分過ぎるほど分かっていたのにそれでもその言葉は私に息を詰まらせるだけの威力があった。必死で表面を取り繕う。この男に少しの優越感をも与えてはならない。
「言うことはそれだけ?」
いつも通りの平坦な声で問えば、彼は何一つ疑問に思わないのか、
「ごめん……」
ただ一言、無意味に謝罪を述べただけだった。
「そう、わかった」
私はわざとらしく溜息をつき、予め用意していたセリフを一息に言う。
「一年以上も二股かけた挙句もう片方を孕ませちゃって詰め寄られて責任取るためにやっと切り出した別れ際で言うことがそれだけなんだ」
男は一瞬キョトンとぎこちない笑みを浮かべたが、言葉の意味を理解してさっと顔色を変える。
「な、何、言って……ご、誤解、じゃ」
「この状況で誤魔化すとか馬鹿じゃないの。行動範囲まるかぶりでバレてないわけないだろ。間抜け過ぎて笑える」
鼻で笑うと男はやっと現実が飲み込めたのか青い顔で息を呑んだ。何度か口を開け閉めした後、結局押し黙る。
大通りに面していながらもお洒落で落ち着いた雰囲気がコンセプトの店内は、緩やかに流れる音楽とささやかな話声がなかなかに居心地がいい。ふいと大きなガラス窓に目を向ければ、絶え間なく行き交う人々が目に映る。こんな状況でもなければ私も休日を楽しめただろうに。
「まぁ、いいんじゃない。お似合いだよ君達は」
この男が自ら話し出したりしないことはわかっている。さっさと切り出すと男はポカンと間抜け面を曝した。
「友人の恋人と知っていて平然と誘惑する馬鹿女と、その誘惑にまんまと乗ってしまう馬鹿男。裏切りに罪悪感を抱きながらも止められない恋心なんてシチュエーションにのめり込んだ挙句でき婚って。どこの三流ドラマだよ。しかも続編まで作るんでしょ? くだらない恋の舞台がくだらない夫婦ごっこに場面を移すだなんて、どんな展開になるのか見ものだね。初めから三文芝居なわけだから期待してないけど」
嘲るように口元を歪めると馬鹿にされていることをちゃんと理解出来たらしい。男は少し声を荒げる。
「そんな言い方……!」
「どんな言い方しようが事実でしょ。どこまで自覚なければ気が済むの? この成り行きで君だけを愛してるだの、一生幸せにするだの、言える神経が理解できないでしょ普通は。その馬鹿げた幻想を真実だと思い込めるんだもの、君達は本当にお似合いだよ。おめでたいね。頭が」
あははと乾いた声を上げる。図星を指されて血が上ったんだろう、男は私を忌々しげに睨みつける。
「いい加減にしろよ」
必死で怒りを押しこめているのか絞り出すように言って、男はやっと真っ直ぐ私を見た。その目を真っ直ぐ見返して無感情に言い返す。
「そうだね。これ以上馬鹿に付き合って時間を無駄にするのも何だし。それじゃあ――」
冷めた態度を崩さずにさらりとかわして、自分が出来得る最大限に嫌味な笑顔を完璧に作って言い放つ。
「――せいぜいお幸せに?」
怒りに燃えた男の表情は冷たい水飛沫で遮られた。慌ただしく走り去る音を目を閉じたまま聞く。ああ、これでお終いだ。
反射的に閉じていた瞼をゆっくりと上げる。濡れて垂れ下がった前髪からぽたりと雫が落ちた。テーブルに置かれたままの伝票が水浸しになっている。自分の分ぐらい払っていけ。本当にどこまでもくだらない男。
「だ、大丈夫ですか?」
「ああ、平気です。お騒がせしてすみません」
店員が遠慮がちに声をかけてくる。濡れた髪をかきあげてにこりとほほ笑んだ。完全にシナリオ通りに事が進んで、いっそ清々しい。あれはその程度の男だった。
だけど、だから何も感じないと切り捨てられるほど、簡単ではないのが現実だった。
会計を済ませて店を出たところで携帯電話が震える。陰鬱とした気分を拭えないまま機械的に通話ボタンを押して、携帯を耳に当てた。
『――すんなり出てくれるなんて珍しいね?』
聞こえてきた声で意識が覚醒する。相手が誰かを確認もしなかったことに愕然とした。自分がどれだけダメージを受けているのか思い知らされる。
『何かあった? 今どこ』
「死ね」
問答無用で通話を切る。そのついでに電源も落とす。それでもきっともう遅い。捕まった。逃げられない。……逃げる気力も、ない。
――ああ、私は何をやっているんだ。
絶望した人間っていうのはこんな気分だろうか、なんて考えて、ただ静かに笑った。