硝子ガラス
冷たい感触を手の平から取り零して
それは鋭い音とともに粉々に砕け散った
からからに乾いた空気の中に溶けていく
まるで初めから何もなかったかのように思えて
記憶からすら急速に落ちていくそれが
何だかひどく悲しく思えた
(でもその思いすらすぐに消えて亡くなるだろう)
色のついた影
薄暗い部屋の一部に色が落ちている
うっすらと床を染め上げるとりどりの色はきらきらと輝いて
目を奪うそれは堪らなく胸を締め付けた
淀んだ空気すら美しく色づける光のラインに沿って見上げると
古びたステンドグラスが外の景色を映していて
光の中で揺らめく影がここにはない風を思わせる
目が合ったのは崩れ落ちそうな女神様
にっこりと嗤う彼女はこの場所に似合いかもしれない
汚された場所に棲む忘れられた女神はさながら死出の神のごとく
僕の忘れていた衝動を呼び覚まし
この鮮やかな光は果たして、この血溜まりすら美しく彩るだろうか
(少なくともその瞬間、確かに正しいと感じたのだ)
セピア色の写真
もうすっかり色褪せた写真を抱きしめて
それは心の支え 私のすべて
耳障りな呼吸の音も鼓動の音も直に絶えるだろう
遥かに逝ってしまった君
そう、やっと君へ届く道に立つ資格が手に入る
苦痛に蝕まれながらもひとり幸せをかみしめる
ここからまた長い旅の始まり
どんな闇の中だろうときっと君を見つけ出してみせるよ
(これまでもこれからも変わらない幸せがある)
そういえば十五年前……
「そういえばさ」
その男は、酒の満ちたグラスを傾けながらそう切り出した。
「十五年前じゃない?」
何が。と言うことすらも面倒で何もせずにいると
「初めて出会ったの」
もう慣れたもので、気に触った様子もなく言葉を補ってくすりと笑った。
そういえばそうだったか。改めて考えると何とも長い付き合いだ。
人生の半分以上でこいつと関わりがあるなんて――
「何でこんなやつとまだ切れてないんだろうって思ってるだろう」
――図星だった。
「ひでーなぁ」
残念そうにけたけたと笑った。
「だから何だ」
「だから――」
若干の間のあと、馴れ馴れしくも肩に手が回り、
「――そろそろいいと思わん?」
低音が耳元で甘く響く。
呆れながら顔を上げるとその男は優しく笑んで、
「結婚しよ」
頬を撫ぜ、答えを待たずに酒に濡れた唇をなぞった。
(戯れでもその意思表示に意味がある)
感じる(けどそう思わずにはいられない)
これがいけないことだというのをしっている

けどそんなもの本当にどうでもいいとしか思えない
かなぐり捨ててしまえ
破滅の足音が聞こえてもいいじゃないか 喜んで堕ちるさ何処にだって
常識も倫理も知ったことか関係ない いけないなんて馬鹿馬鹿しい
怨みも憎悪も承知の上

それほど多くのことを望んだ覚えはないのにね?
“このひとつさえ手の届く場所にあればいい”

きみが他人の物だということをしっている
きみが罪悪感に苛まれていることをしっている
きみが僕から離れたいと思っていることをしっている
でもそんな生ぬるい反抗で離してなんてやらないよ?
きみが僕のすべて
この躯を引き裂いて燃え滾る黒い炎を見せてやろうか

嗚呼 破滅がじりじりと舞い降りてくる

きみを引き摺りこもうなんて思ってないよ?
僕のすべてを賭けたとしても、きみのすべてを望んだわけではないからね
最期の一瞬まで僕がこのくだらない躯すべてで君を感じていられればいい
それならば滅びの瞬間すら快感だ
(ただひとつの愉悦がその存在というだけのこと)
光にかざして映る色
日の光に透けて赤く輝く貴方の髪が好きだった
日の光を受けて赤く煌く貴方の瞳が好きだった
僕に降りかかるその赤い色が好きだった
でもやっぱり、僕にはただそれだけで
ただ好きだと仄かに思うそれだけでしかなくて
それが僕の規律を狂わせることも無く
でも貴方を殺すのは月さえ無い闇の夜にしよう
僕は悲しくて涙を流すだろうけれど
きっと貴方を殺すだろう
そうして僕に降りかかる赤は僕の好きだった色とは違うだろうけれど
きっと僕は満たされるだろう
(逆らえない衝動にすべては呑み込まれ)
焼きつく残像
それは時間にしてほんの数秒
一瞬の出来事
でもあまりに強烈なその光景は僕のすべてにしっかりと焼きついて
もう二度と消えはしないだろう
その日から僕が見ているものは誰とも違って
どんなに幸せな世界にも
その過去の一瞬がフィルタを重ねるように薄く映って
僕はすっかり闇に染まった心の底で静かに嗤う
君が足りなくなった世界に君が映る
例えそれがどんなに悲惨な光景でも君がそこにいる
君が消える最期の一瞬が永遠に僕に付き纏う
(壊れた愛と壊れた自分と自己防衛)
古い記憶
目の前でゆらゆらと揺れる振り子を馬鹿みたいに目で追って
重くなる意識を更に重くする低い声に身を委ねる
――さぁ、古い記憶を呼び覚まそう
自分の奥の奥から何かが染み出てくる
闇の中に漂い出すそれはもやもやと気配だけを見せて
それが何かは、まだ解らない
――さぁ、古い記憶を手にしよう
だんだんと集まって濃密になるそれは静かにそこに在るだけで
だから自分から手を伸ばす

聞こえた叫び声は誰のものか

さぁ、目を開けよう
そこにはきっと新しい世界がある
(それは幸か不幸か、感じる間もなく)
想う(取り戻せないことは知っているけれど)
未練がましい、と言われれば、はっきり言ってその通りだ
今思っても想っても大切で愛しいそれを捨てたのは自分
どうせ最後まで続かないと見切りをつけて自分ひとりさっさと平穏を手にした
今さら戻れるはずもないことを知っている

もし戻れたとしても

この平穏を捨ててまで不確かな永遠を手にするなんて、きっと自分は選ばないんだ
(それでもやっぱり想わずにいられない矛盾に触れないで)
切ない程に綺麗な、
おめでとう、おめでとう
言う人も言われる人も満面の笑顔で
どうみても幸せなこの場所に自分ひとり場違い
うまく装えているのだろうか
でも絶対におめでとうなんて、言えない
貴方の隣を歩くのが永遠に自分であるようにと願った
それが叶う筈もないことを知っていたけれど
それでも願わずにいられなかったんだよ
視界がきらきらと光る

それは切ない程に綺麗な、貴方の掴んだ幸せ
(何もかも壊れてしまえば良かったのにと、心の中でだけ)