これが最後。
最後の一歩を踏み出す前の、この道を進むか否か、心を決める最後のチャンスで最後の時間。
ここまで来て今更何を、とは思う。既に幾つもの犠牲を生んでいるのだ。それでも、いや、だからこそ、最後の一歩を踏み止まって。
残す工程はあと一つ。それが完了すればひたすら突き進むか、命を断たれるかのどちらかしかない。何があっても迷わず立ち止まらず、邪魔なものすべて薙ぎ払って、どんな犠牲にも躊躇せず、躯を心を自分を捨てて、他人を世界を捩じ伏せて、すべてをただ目的の――この願いを叶えるために利用して、
その決意が俺にあるか。その覚悟が本当に俺にあるのか。
暗闇の中で独り、ただ前を見つめる。何が見えるというわけではない。自分の姿さえ捉らえられない、ひたひたと痛い深い闇――この道を進むというのはこういうことなのだ。何もかも飲み込んで、どこまでも続く闇をただ独り行くだけの、例え何一つ解らなくても。
かちかちと響く時計の音。わずかな光も遮っている窓の外では満月が高く昇ろうとしているはずだ。
さあ、どうする。選べ、選ぶしかない。忘れることも、留まることも望まないのなら――!
扉を開けると蝋燭の明かりの前で本を読む彼がいた。揺らめく光は虚ろな雰囲気を持つ彼を余計に朧に見せる。
俺に気付いているだろうにわざとゆっくり顔を上げ、いつものぼんやりした目を向ける。俺が手に持つ物を見ても眉一つ動かさず普段と何ら変わらない様子で、
「――ああ、決めたんやね」
それがどういうことか分かっているのだろうか、どうでもよさそうに言って、立ち上がることもせずただ読んでいた本を閉じた。
「、ああ、決めた」
思いがけない言葉に声を詰まらせながら、それでもはっきりと答える。これが俺の、答、進むと決めた道。
そうして彼に向けるのは剣の切っ先。
そんなつもりもないのに手が震えている。自分が二つに分離したみたいだと思った。緊張と恐怖と不安と、期待と、ぐちゃぐちゃに混ざった感情が闇の奥底でざわついて、躯がそれに反応している。それをまるで他人事のように遠くで感じながら、俺はただ何もかも――自分はおろか世界そのものが凍てついたようだと、冷静に思っているのに。
一歩、踏み出す足にうまく力が入らない。よろめきそうだと思いながら地面を踏みしめる。そうして一歩、もう一歩。
「――……知ってたんだな」
少しずつ、でも確実に狭まる距離に思わず、声を出さずにいられなかった。
「……まぁ、何となくね、分かるわ。長い付き合いやしね」
彼は視線を逸らさずに、諦めたように溜息混じりに言う。その声が、答が、彼の態度が、分離した心を震わせる。
「逃げないのか」
「――まぁ、そやね」
俺の問いに彼はふと苦笑して、
「僕も決めてんよ」
立ち止まる。簡単に剣の届く距離。
これが最後の工程。願いを叶えるのに必要な、最大の呪いを完成させるための。
「そんな顔しなや……」
黙って彼を見下ろす俺に悲しそうに笑いかけて、彼の手が剣を握る手に触れる。
「君の糧になれるなら本望やわ」
でも、微かに触れ合った手の温もりさえ、俺はもう分からないんだ。
剣を握った手に力を籠めて、優しい手を払うようにゆっくり振りかざす。
「……こんなん、つらいなぁ」
その様子をじっと見つめる彼はぽつりと呟いて。
そんな彼を静かに見下ろしたまま、俺は思い切り剣を振り下ろした。
「何もしてやれんでごめんな――」
ゆらゆら揺れる蝋燭の灯火が部屋を薄暗く浮かび上がらせ、影が躍る。まるでこれに狂喜して嗤う闇の使者のようだ。
不安定な朱い火はその色を重ねるから。
だから床に広がる血溜まりは、まるで血ではないようだった。ゆっくり視線を巡らせて、自分が呆然としていたことに気づく。
傍らに転がるのは既に事切れたもの。血の気がない白い手が血に彩られて、何だか無意味に可笑しかった。その手の横に、まだ生きている自分の手は、しっかりと剣を握り締めて。
思わず笑いが込み上げてきて、けれどそれは笑い声には成らなかった。喉が焼け付いたように引き攣ったから。手も足もうまく動かなくて、ただがくがくと震えるばかり。頭も躯もすべてが重くて、くらくらと揺れる意識で思った。
ああ、闇に、沈んだ――。
「……ふふ」
ずっしりと圧し掛かるそれはいっそ心地良かった。ふと嘲笑が口許に浮かぶ。ゆっくり瞬きを繰り返すだけで俺は俺を取り戻す。
立ち上がって進むための扉へ向かうが、ふと思いとどまり踵を返した。
先ほどまで自分の居た場所に立ち、もう一度部屋を見渡す。
動くのはただ、自分と灯火と暗い影。
白い肌を冷たい目でじっと見下ろして、揺らめく灯火を吹き消した。
闇に呑み込まれた部屋を出れば爛々と輝く満月はもうすっかり傾いていた。
その下で、血みどろの手には剣。
それはきっと、俺が生涯払うであろう最大の犠牲だった。大切なものを亡くした、その愚かな願いの為に残された大切な人を捨て。
そうして俺は走ると決めたのだから。
躯が重いのも頭が痛いのも直に慣れるだろう。ふと触れた頬には濡れて乾いたかさつく感触。それは果たして涙だったのか、それとも――そんなことはどうだっていい。
さぁ、最初の一歩を踏み出そう――――。