「リュー!」
突然に響いた大声で、静かにまどろんでいた森が揺れ、私の傍で戯れていた動物達はすっかり逃げ出してしまった。
ここしばらくは平穏だったのに……と億劫に思いながら声の主を見ると、それは思いもしなかった人物で、ひどく驚いたと同時に嬉しくなって自然と笑みが浮かぶ。
「これはこれは、久しぶりだね?」
「ああ、そうだな」
彼に会うのは何年ぶりだろう? もう十数年になるだろうか、年月の感覚に疎い私は正確な時間が分からないけれど。毎日のように来ていたのが突然ぱったりと来なくなったから、諦めたのだろうと――だからもう会うこともないと思っていた。
私にとっては何てことのない時間でも、人である彼にとっては十分だろう、少なくとも外見はすっかり大人へと成長している。
「今日はどうしたんだい?」
「白々しく惚けやがって。俺がここに来る理由なんざ一つしかないだろ」
自信に溢れた挑戦的な目が少しくすぐったい。ああ、あの頃と何も変わっていないのだと嬉しくて、
「そんなに私が恋しくなるなんて、甘えん坊な子だね」
「ば、違っ……俺はお前を捕まえに来たんだよ!」
彼の言うように白々しく惚けて見せると予想通りに噛み付いてくるから、堪らなくて噴き出してしまった。
「あははは……っ、相変わらず可愛い子だね!」
彼は途端に真っ赤になって、
「可愛いって言うな! お前馬鹿にしてるだろう!?」
「いやだな、そんなことはないよ」
くすくす笑う私が気に入らないのだろう、恥ずかしげに舌打ちをする、その癖も変わっていない。それが尚更に可愛いのだと本人は気づかないようだ。
あまりに私の笑いが治まらないからか、それを遮るように大声で言う。
「もう笑うな! いいから大人しく俺のものになれ!」
「――ああもう、まったく、君って子は……」
昔と同じ口説き文句に思わず苦笑する。本当に直球で困ったものだ。
こうして面と向かって言われると、流石に私も心苦しいというのに。
「嬉しいお誘いだけれど、遠慮させていただくよ」
まぁ、それを悟らせるつもりはないけれど。
昔と同じようにわざとらしいくらいにっこり微笑んで断ると、彼は臆面もなく不機嫌を顔に出す。
「まだ気は変わんねぇのか」
「ああ、変わらないね」
即答すると悔しそうに顔を歪ませるから、その表情に私も胸を締め付けられる。
だから私は微笑んだまま、言う。
「私を従わせたいのなら力ずくでやることだ。私の気が変わるのを待てる程の時間を、君は持っていないだろう」
素直になれないのは私の弱さ。それを打ち壊すのを彼に押し付けるのはずるいのだろう。
だがそれこそを私は望むのだ。
「……そーかよ、分かったよ。本っ当、いいご趣味ですこと!」
彼は観念したように吐き捨てて、腰に携える剣を抜く。
空気がピンと張り詰める。風がざわざわと不安げに森を揺らした。
「――いくぞ!」
「ああ、お相手しよう」
――この世界で私の属する種は、絶対的な力を持つとされる、非常に希少な存在だ。
遙か古代より存続する我々は神の象徴とも言われ、ある場所では崇拝され、ある場所では畏怖され、ある場所では最高の値打ち物として売買され――だから戦いを挑むものは後を絶たない。
人目に触れることを好まず、一つの場所に腰を据え単体で暮らす者が多い。その例に漏れない私が彼に初めて出会ったのは、彼がまだ年端も行かぬ少年だった頃だ。
私の棲むこの森に一人でやって来た彼は、驚くことに既に一人前の冒険者として自らの社会的地位を確立していた。だが年齢ゆえ不利に立たされることに変わりはなく、だから彼は自らの力を誇示できる手段を考えた。
強大な力を持つ獣を調伏――使役する。
彼は初め、私をそれとは気づかなかった。当然といえば当然、私はいつものように人型を模していた。だからその日は何も知らないふりをしてあしらってやったのだ。翌日、事情を知った彼が怒りながら訪ねて来たときはあまりに可愛らしくて笑ってしまい、余計に怒らせてしまったっけ。
それからというもの、毎日のように私に会いに来ては「俺のものになれ!」と戦いを挑まれた。勿論、実力でもって丁重にお断りしたわけだが。
その素直で真っ直ぐな少年を私はひどく気に入ったのだ。
だから何の前触れもなく突然来なくなってしまったときは心配したし、悲しかったな。
私はこの森で一生を過ごすと決めた。彼のことを好きだったし、彼から聞かされる世界はとても魅力的だったけれど、だからと言ってこの場所を離れられる程、私は素直ではなかった。
彼は私をリューと呼ぶ。しかしそれは本当の名前ではない――名前を教えるのは主と決めた者にのみ。どうせここに居るのは私一人なのだから支障はない。
――そう。私は竜。気高きドラゴン。
勢いよく地面を蹴って距離を縮めてくる彼を見る。手に持つは腰に差していたノーマルな剣。腰にはあと短剣が二本。背にもう一本長剣を負っているが、これは切り札的なものだろう。
フェイントを入れてから振り下ろされた剣をぎりぎりのタイミングでかわすと、空を切る鈍い音。流石に昔と違って力も強いだろう、重い剣戟を受けるのは面倒だな。横薙ぎに二撃目、後ろに跳び、続く三撃目は下から上へ、体を捻って彼の背に回り込み、その勢いで蹴りを繰り出すが掠りもせずに避けられる。
ああ、懐かしい。このぴりりとした緊張感、真剣な戦い。それを楽しいなどと思うのは少し彼に悪いけれど。
成長した我が子を見るようで嬉しい。思わず笑みが浮かんでしまって、どうやら彼をむっとさせたようだ。
「なめてられるのも今のうちだぞ!」
一旦開いた距離を再び縮めてくる。突き出された剣を一歩横に引いてかわし、続いた横薙ぎをしゃがんでかわす。そのままの低い姿勢で前に踏み込み、振り下ろされようとした剣を握る手首を捉え、彼を投げ飛ばす。
「く、ッ!」
上手く受身を取ったらしい彼を煽るように一言吐く。
「こんなものか?」
「っくそ! まだまだ!」
その言葉通り、彼の勢いは一切の衰えを見せない。何度か攻撃を避け、避けられ……進展がないやり取りを繰り返していたその時。
それを打破するように死角から伸びてきた彼の手の平には、凝縮された光の塊――
「“爆ぜよ光火”!」
――魔法!!
……鳴り響いた轟音と、巻き上がった土煙がまだ余韻を引いている。
詰めていた息をゆっくりと吐き出した。
「――こんなに早く傷を受けるとは思わなかったな」
「……本当にムカつくやつだな、お前」
「そうかい?」
少し距離を置いて彼と対峙する。
ガードした手がびりびりと痺れている。私の頑丈な肌を傷付けるとは、なかなか強力な魔法を扱う。
「驚いたよ。いつの間に魔法なんて覚えたんだい?」
「お前がこんな所でのんびり引き篭もってる間にだよ」
「おや、憎たらしいことを言うじゃないか」
魔法を扱うというのは容易なことではない。それを自然と受け継ぐ種族――例えば竜のような古代種――ならまだしも、その難解な構成を理解し、実行するにも複雑な工程を要する、人という種族では一握りしかいないと言われる魔法使い。
昔から才気溢れんばかりだったが、それを遺憾なく発揮しているわけだ。
「ふむ」
魔法を使えるとなると厄介だな。どれほどの魔法を操るのかは分からないが、それを読むことはできないのだ、用心するに越したことはない。
「では私も、それなりにお相手することにしようかな」
静かに笑うと、その意味を理解して彼が息を呑んだ。
「降参するなら今のうちだよ?」
「うるせ。切り札は一つじゃねーんだよ」
「そうかい? それは楽しみだね……」
私の発する不穏を感じ取り、森がざわめく。
本来の姿に戻るのは久しぶりだ。何しろあの巨体では静かに暮らすには不便だからな。
身体が淡く光り、パキパキと微かに音を発する。肌が次第に鱗に覆われ、むくむくとその大きさを増していく。
大気をビリビリと震わせる恐ろしい咆哮が森に木霊した。
「っ、これが、本当のドラゴンか……!」
すっかり小さくなった彼をじろりと見下ろすと緊張した呟きが聞こえる。彼にこの姿を見せるのは初めてだったか。
そう、これがドラゴン。恐ろしいか? しかし君はこれを力で捩じ伏せなければならない。
思い直すなら今のうちだ、と、彼に向き合い間をとる。
「……っ、いくぞ、リュー!」
彼は覚悟を決めるように息を吸い、ぐと剣を握りなおす。
剣を構えて間合いを詰める彼を阻もうと攻撃を仕掛けた。手を振り下ろせば、それだけで大地が砕け大きく罅が走る。
「く、この……っ!?」
跳躍して避けた彼に向かって尻尾を振り下ろす。予想外の方向からの攻撃だったのだろう、鈍い手応えがあった。剣でガードしたようだが、この硬質な皮膚が勢いを付けて襲った衝撃を受け止めるには足りないだろう。
舞い上がった土埃の中から、傷を負った彼が姿を見せる。口元を拭いながら折れた剣を投げ捨てた。
諦めなど微塵も過らない、強い眼差しのまま私を睨みつける。ああ、この子は本当に――何故そこまでに私を求めてくれるのだろう。君なら私の力などなくとも、どこまでだって向かっていけるのに。
緊張を孕んだ空気が大きくうねり、彼に向って巡る。魔法を撃つ気か。
「――“風纏い燃え盛れ、焼き滅ぼせ劫火”!」
先程とは比べ物にならないほど大きく練られた魔法が私に向かって放たれる。全く、人でありながらどこまでの力を身につけるつもりなんだこの子は。
だがそれでも、私を倒すには足りない。
「グオオォ――!」
大きく息を吸い込み、それを向かいくる炎にぶつける。互いに阻み合い霧散する力。
しかしその先に彼の姿はなかった。うまく私の目から逃れたな……!
彼の気配を追う。素早く走る影を捉えて尻尾を振り下ろすが、
「ギャ……ッ!?」
鋼のぶつかり合う鈍い音と同時に鋭い痛みが襲い、一瞬怯む。まさか私の尾が剣に負けるとは。
彼が手に持つは、背に負っていた長剣。
鋼鉄にも勝る私の肌を容易く切り裂くなど、ただの剣ではない。確かに切り札と言って十分過ぎる代物だろう。だが。
その剣の放つ不穏な気配に悪い予感がした。
的中してほしくない予感を容易く肯定するように、彼はその剣の名を高らかと呼ぶ。
「魔剣ディアブルヴァレ、契約に従い我が願いを叶えよ!」
その言葉に悪寒が走る。魔剣。それは私と同じ、絶対的な力を持つとされる非常に希少な存在。
おぞましき悪魔の化身と言われ、契約者に圧倒的な力を与える、その代償に命を吸い取る――
「彼の者の力を封ぜよ!」
止めることなど出来ない。
彼の命令に従って、剣から立ち上る禍々しい暗い魔力が、抗う間もなく私を捉える。
そして勝敗は決した。
「魔剣と契約するなど何を考えているんだ君は!!」
人型に戻った私がまずしたことは、彼を怒鳴ることだった。
彼は私の反応を予想していただのだろう、煩わしげに手を振る。
「しょうがないだろ、お前を負かすには必要だったんだ」
「そんなことの為に命を縮めてどうする!」
「大丈夫だ、それほど不利な契約にはしてない」
「そういう問題じゃないだろう! 君は自分が何をし」
「あー、もう、わかった。それについては後でちゃんと説明する。だからちょっと黙れ」
有無を言わせない強い物言いに渋々口を閉ざす。冷静にそう言われてしまったら、まるで私が駄々をこねる子供のようじゃないか。
「それより、今はもっと他に言うことがあるだろ」
大人びた彼を少し見直したところだったのに、少し不機嫌にそう続けた彼は不貞腐れて、まるで子供のようで。
私は苦笑する他ない。
「……君には負けたよ」
跪くと、彼は緊張したようにごくりと喉を鳴らした。
「貴方を我が主と認めよう。私の名を以って主従の契約とする」
私はゆっくりと、その言葉に命を吹き与えるように声にする。
「私の名は――リューシルフィス・ファライアス・フェルー」
「それが、本当の名前」
消え入りそうな声で呟く。私は頭を垂れたまま、次の言葉を待つ。
しばらくの間の後、
「って、ちょっと待て。結局“リュー”なんじゃねぇか!?」
私の名を復唱した彼がその事実に気づく。
「うがぁ! 何か悔しい!!」
「……っ、駄目だ我慢できない! あはははは!」
予想通りの反応を返してくれる彼に、私は遠慮なく笑った。
「笑うな! っくそ、何て気の長いネタを……!」
真っ赤になって私を睨む彼に、偽りのない満面の笑みを向ける。
「これからよろしくお願いするよマスター。私に君と同じ世界を見せて!」
そう言った私に彼は驚いたように目を丸くして、そして幸せそうに笑う。
――さぁ、君と共に世界を見に行こう。
“連れ出してくれてありがとう、私のマスター!”